寺内紹介
熊谷寺の名前の由来である熊谷直実、その師法然上人等、多数の方々が逗留され、平敦盛並びに源平総死者供養を行ったお寺です。宗旨宗派問わず、どなた様もお越し下さい。
高野山に52ヶ寺ある宿坊のうちの1軒です。 真言宗寺院であるにもかかわらず、歴史的背景から 阿弥陀さまや法然上人等をおまつりしております。 熊谷寺は門前に駐車場がございます。 お車でお越しの方もご安心ください。 |
お越しの際は是非この正門をくぐってお入りください。 |
正面玄関には不動明王と八大童子様がお迎えをしてくれます |
法然上人25霊場の番外札所になっている 円光堂です。 手前の石像は熊谷次郎直実(熊谷蓮生)です。 円光堂の本尊は法然上人です。なお、不動明王もおまつりしておりますので、熊谷寺の護摩堂も兼ねてます。 |
略縁起
熊谷寺所縁の墓碑と宝物
[円光大師 法然上人墓]
奥の院参道、父母恩重碑、前田利長公墓所を過ぎると左手に見えてきます。五輪塔の形、苔むす姿が歴史を感じさせます。
[見真大師:親鸞聖人宝篋印塔]
[九条兼実墓所]
[覚信尼(親鸞聖人の娘)墓所]
奥の院一の橋入り口から入り、すぐの二叉に分かれた道を右にとります。景経碑、ゴルドン婦人の墓を越えると左上に見えてきます。この墓地の裏手には熊谷寺先師墓があります。
[熊谷蓮生房墓所]
[平敦盛墓所]
熊谷蓮生房は関東へ向かう時にも西方極楽浄土におられる人々に『剛の者』と言われるようなお尻を向ける失礼があってはならないと馬上で後ろ前に座り礼拝しながら向かったエピソードがあります。
[歌会の絵巻]
圓光大師、見真大師、九条兼実、熊谷蓮生房が一堂に会して歌を詠んだとされる巻物。作家 故・司馬遼太郎氏もこの絵巻をご覧になってます。
[六字名号掛軸]
親鸞聖人の時代のものであろうとされる古い掛け軸ですが、文字の部分が毛髪で織り込まれている大変珍しいものです。
当寺は圓光大師(法然上人)・見真大師(親鸞上人)・熊谷蓮生法師(熊谷直実公)の御旧跡、法然上人二十五霊場の番外札所です。
当寺は桓武天皇(737~806)の皇子、葛原親王(786~853)の御願により、承和4年(837年)に建立せられ、宗祖弘法大師(774~835)の法孫、真隆阿闍梨が初代住職です。
寿永3年(1184年)2月7日、摂津(今の神戸市)一の谷における源平の合戦(鵯越の逆落とし)に敗れた平家方の将兵は友軍の軍船に逃れましたが、この時遠浅の海に駒を乗り入れた武将を呼び返した熊谷直実は格闘数合やがて組敷いて首級をあげようと良く見ると、一子小次郎直家と同年輩の美少年、平家の大将参議経盛(1,125~1,185)の末子敦盛(1,169~1,184)でした。
直実は同じ日の未明、敵の矢に傷ついた直家の「父よ、この矢を抜いてたべ」との願いを耳にするも、敵中の事とて傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入した時の親心の切なさを思い起こし、敦盛の首を斬るに忍びず、暫し躊躇ったのですが、心を鬼にして首を掻き斬ったのです。
かくて直実はほとほと世の無常を感じて発心し、当時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与えられ、専心念仏の行者となったのです。
建久元年(1,190年)は敦盛卿の7回忌に当たるにつき、追福の法要を営まんと思い立ち、師法然上人の指示により高野山に登り、父祖の菩提寺であった当寺(当時は智識院と言う名だった)に寄寓し、敦盛卿の位牌および石塔を建立し、懇ろに敦盛卿の菩提を祈ったのです。
以来14年間山に留まり念仏に専心し、建仁元年(1,201年)鎌倉将軍源平両氏の戦死者大追悼会をこの山で営んだ時、法然上人その特請に遭われ、親鸞聖人及び圓證入道関白兼実(1,149~1,207)と共に登山し一夏九旬の間当寺に留錫、そのころ真別処において称名念仏していた24人の社友等と交誼を交えながら衆生済度の大願を祈求されたのです。
或る時御三方(法然上人・親鸞聖人・熊谷蓮生)庭前の井戸の水鏡にて各々のお姿を写され、自らその像を彫られました。その御尊像を奉安してあるのが、表門の横にある「圓光堂」です。
また、法然上人は龍華三会の暁に、弘法大師に値遇の良縁を結ばんが為に、末世道俗摂化の方便にもと五輪の石塔を奥の院のほとりに建立し、自ら梵字を書し「源空」の二字を刻んで置かれました。
上人の滅後、弟子等相寄り御芳骨をその塔下に納め奉ったと伝えられており、「高野山圓光大師廟」とは、この五輪塔の事であります。
蓮生法師は承元2年(1,208年)9月14日、念仏を唱え睡るが如く往生されました。その後直家は亡父の遺命により登山、当寺の堂宇を改造修築して追孝の法要を営みました。
この事が時の将軍実朝公の知る所となり、蓮生房の詠まれた「約束の念仏」の歌と、「熊谷寺」と書かれた扁額を寄進されました。
この因縁により「熊谷寺」と改称し今日に及んでいるのであります。
弘長4年(1,264年)親鸞上人の3回忌に当たり、覚信尼公(親鸞上人の末娘 1,224~1.283)上人の遺命にて御臨終の名号並びに御遺骨、及び御母公玉日(九条兼実の娘、恵信尼)の前の木像を、使者日野家の士下条専右衛門頼一を遣わして当寺に納められ、且つ上人が師の流れを汲んで、かねて手書しおかれた梵字を刻んで石塔を建立されました。
上述の如く当寺は承和4年創建以来ここに千百有余年、高野山の歴史とその運命を共にしてきたのでありますが、明治21年3月に高野山に大火があって、当寺もその災にかかり、堂舎悉く消失しました。
以来、先師の並々ならぬ努力により再建され、逐次坊舎の増築するにあたり、旧に倍する規模を呈するに至っております。
これも偏に宗祖弘法大師の御加護と加ふるに、上来御三方の御霊光の賜物と渇仰の微衷禁ずる能はざるものがあります。
こいねがわくは圓光大師・見真大師の芳躅を慕い念仏唱名し、往生の素懐を遂げんと願う信者は両大師の流れを汲み登山して弘法大師に龍華値遇の良縁をお結びください。
篤信の善男善女願わくば当寺に参籠して佛恩報謝せられん事を。
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